昨日のブログ、「花の文化園の薔薇 と不幸になる理由」の続きです。
どうしていろんなことをどんどん、自分にとって愛情の対象となる相手(子供や他人)に言い過ぎてしまうのでしょうか?
実は私たちはこの世界に守られて存在しているのだから
目の前の相手が、知るべき大切なこと、
生きるために必要なことは
他の人が別の形で教えてくれるのです。
そう考えてまわりを信頼し、自分が伝えたいという思いを、執着を、手放すこと、それが大切。
ただ
あなたが教えなくても、そのひとは他から学べるのだと信じて見守ることが、これまで生きてきた人生が幸せでなかった、と思っている人にはなかなかできません。
まわりを、この世界を信じられないという気持ちは、もっともっとこの愛する相手に自分が伝えなくては、という強い想いにも変わっていきます。
そのことが知らずして相手をコントロールするような言い方やニュアンスになって目の前の人に伝わってしまうんですね。
まず過去の出来事を少しずつ、不満足からおかげさまで、というふうに変えていくことが「信じて見守る」ためには大切なことになります。
そしてたとえば、
その話が相手にとって必要なことでも、
それを知るタイミングが今じゃないことがあります。
相手の受け取れる器(たとえば話が水だとしたら水の入るコップ)の大きさも
その相手によって違います。
一生懸命に伝えても、ほとんどコップの外にこぼれてしまうなら、
今話すことは意味がないのと同じになります。
まわりからいつか教えてもらえるタイミングがあると、信じきる。(「信じきる」には過去の受け取め方を変えるとともにまわりを理解することがまず必要です。気学では信や理解についてともにこの世界のなりたちやそれぞれの人の価値観を理解するための学びをしています)
そして
ゆだねて待つことができる
そんな「待てる力」を自分自身の内に育てる。
これを気学では二黒土星であらわしますが、
同時に「母」「受容の力」
という意味も持っています。
教えたい、諭したいという気持ちをぐっと堪えていくことで、「人を育てる力」や受容力が自らにもついていく
あなたが黙って待つことで、
美しい泉が湧き、
そこには
乾きを求めて人が集まるようになる
と先人も教えてくれています。